繁昌亭とは

天満天神繁昌亭・発端 
− 六代 桂文枝

2006年、9月15日。 「天満天神・繁昌亭」がオープンした。

戦争で落語の定席が消失してから実に60年以上経過していた。
なぜ出来なかったのか、なぜ出来たのか、とても一口では語れない。
悪戦苦闘の末、夢の、奇跡の劇場に違いない。

「天満天神・繁昌亭」開場の3年前、2003年に上方落語協会会長に就任した。
もちろん、若いころから、もしも会長になったら上方落語をこう変えたいという漠然とした気持ちを抱いたことはあったが、それは夢のまた夢であった。

現、春之輔副会長から協会改善の相談を受け、会長になって欲しい旨を言われたが、選挙ありきの話と固辞し、ともかく半年かかって選挙になり、会長に推挙されたのだった。
と、これだけは大事なところだから説明しておかないといけない。

会長就任後、まず私のとりかかったのは、それまで10年かかって出来なかった社団法人化の話だった。
当時の河合隼雄文化庁長官へご相談に上がり、社団法人化に向けて大きく進んでいった。
設立許可証は会長になったあくる年に頂く運びとなったのである。 

2004年8月の事だった。

協会には旧態依然とした体制が残っており、思いのほか早く出来た社団法人化を喜ばないものもいたことは事実であるが、とにかく社団法人となった。
私はそれで協会の会長としての仕事をほとんど終えたように感じていた。
だが、ある協会員の一言で私は次なる目標を持った。いや持ってしまったのだ。

「どこに行ったら上方落語が聞けるんですか?ってよく言われるけど、それぞれの会の事しか言われへんし、その時に客も来られへんかもしれんし、戦前のように落語の定席があったらええけどなぁ」

いつでも落語を聞けるところ。
でも、私にはまだぴんと来ないものがあった。

いつも吉本の大きな劇場に出ていたから、私自身が切実に劇場が欲しいと思わなかったからである。
でも、いつも落語が聞けるところがあれば、若い落語家の名前も覚えてもらえる。

吉本や松竹の舞台、米朝事務所のホール落語会はあっても出演できる噺家は限られている。
若手になかなか落語を演じる機会がないのが現実だった。
それぞれの小さな会で好きなように落語をやっているに過ぎなかったのだ。

落語の定席の必要性は感じ始めていた。
しかし、それには大きな壁が立ちはだかっていた。

場所探し~運命の出会い

吉本興業に所属している私が、いくら協会の会長とはいえ、同じ興行をする劇場を造るなど考えられなかった。

でも、若い人を育てるという名目なら、それも小さな場所だったら、そこで育った芸人を吉本や松竹が使ってくれたら、興行会社の得になれば、ひょっとしてできないことはない。
小さな劇場なら可能性があるかもしれない。

私はシャッターが閉まってる、商店街の中の店に目をつけた。

六代目松鶴師匠はやはり定席を望んでいた島之内寄席もそうだが、神戸の「柳笑亭」と呼ばれていたところは書道塾のようなところで、細長いところだったが、定期的に会を開ける場所だった。

あんな感じのところ。
と、イメージしていた。

私の頭には、それが昔の寄席の規模で、それくらいの寄席を考えていた。
60人から100人も入れば、と。

「空いてる店があるんですけど、規模的にもええ感じですが、ただ」
「ただ?なんでっか?」
「ほとんど人が歩いてまへんで」

そんなやり取りが何度も続いた。
実際、商店街のシャッターが閉まった店を視察に何度か訪れたが、とても毎日やれそうな感じがしなかった。
シャッターが閉まった店の利用をあきらめかけていた時

「天神橋筋商店街の会長さんに会ってみませんか?」
「天神橋筋商店街?」
「ええ、日本一長い商店街ですわ」

天満なら、噺家になってしばらくして、春之輔さんたちと「鳥の会」と言う落語会を天六にある北市民会館の2階で、定期的に開いていたことがあったけれど、ほとんど商店街は歩いたことがなかった。
あの頃の弟子はほとんど内弟子で、会が終わればそれぞれが師匠のもとに飛んで帰っていた。

今のように毎回、落語会の打ち上げがあるなど考えられなかった。
ただただみんな落語に打ち込んでいた時代だった。

六丁目の北市民会館へ行くだけで、一・二・三丁目の方へは行ったことがなかった。
子供の頃、母が中崎町で働いていた頃に中崎町商店街を東に抜けて、天神橋筋商店街を通って天満宮に行ったことがあったが、写真で見ただけで、ほとんど記憶になかったのである。

商店街の会長土居年樹さんとは、当時まだあったなんばグランド花月の東の吉本別館の一階にある喫茶店でお会いした。
わざわざ出向いて来て下さったのだ。

土居会長は白くなり始めた髪を後ろになでつけて、細身で、一見、学者のようだった。
とても商店街の瀬戸物屋の大将には見えなかったのである。

「落語の寄席の場所を探してはるらしいでんな、いろんな商店街を見て回ってると聞きましたが、商店街にあんまり人が通ってまへんやろ?」

土居会長はカッカッカと笑った。

その通りだった。
でも、吉本の喫茶店で、寄席の話をする方が私には気が気ではなく、同じように笑えなかった。
その後に土居会長の口から出た言葉に驚いた。

「今は、駐車場になってまっけど、その場所を大阪天満宮の宮司さんが、ただで寄席にしてもろても、ええと言うてはりまんねん」

無料で?土地を?
駐車場か・・・

私には商店街の通りから離れた駐車場に、寄席が建つなんてとてもイメージできなかったのである。
どうせ、淋しい場所に違いない。
その言葉を飲み込んで、言った。

「一度見せてもらえますか?」

その辺りは、昔は「天満八軒」と呼ばれ、寄席や芝居小屋がひしめいていて、にぎやかで、そのうちの一つ「第二文芸館」と言う小屋が吉本興業発祥の地だということをまだ知らなかったのである。

数日後見学に行った。

駐車場は大阪天満宮北門の東側にあった。
そこは契約者のみの駐車場と言うことであった。一〇台ほど停まっていただろうか。
私は驚いた。
あまりの広さにである。

寄席が建ってしまうとそんなにも大きいと思わないが、何も建ってない時の広さは、自分の思い描いていた劇場の広さをはるかに超えていた。
こんな広い、それにまだ契約者もいるのに、この土地を貸してもらえるのだろうか、夢のような話だったから、にわかに信じがたかったのである。

「宮司さんは、駐車場代で儲けようとは思ってはりませんねん。
商店街の、この界隈の活性化につながることやったら、ここに寄席を作ってもらってもええと」
との、土居会長の話だったが、その話に乗るには勇気のいることであった。

何せ上方落語協会には全く上物を建てる資金がなかったからである。

正直、決心の付かないまま、土居理事長に
そのことを話すと

「寄付、集めたらどうでっか?」

人のご厚志だけで建つ規模ではないのは、承知していたが、土居会長は

「1億円で建つと、設計の先生が言うてくれてはりますねん」

土居会長が懇意にしている建築家さんが、数日後、一億で充分建つという寄席の模型を持ってきた。

「これは・・・・」

私は唖然として言葉が出なかった。

近代的、芸術的ではあるが、とても寄席の、私の持っていたイメージと大きくかけ離れていた。
まるで鳥小屋みたいだったからだ。

私は言った。

「私は、せっかく天満宮さんに貸していただくんですから、天満宮の景観を損ねたくないんです。昔ながらの、寄席の雰囲気がないと、こんな風じゃなくて、和の感じです」

写真で見た、吉本の天満花月や法善寺花月のような、造るなら情緒のあるものでないと落語の定席らしくないし、吉本の持っている劇場とは全然違う、又、お客様にも、落語という異空間に入っていきやすいような、東京の新宿末廣亭のような、いわば落語のテーマパーク的な寄席にしたかったから、その斬新なデザインを却下したのだった。

新たに、私にはお金を集めるアイデアが湧いていた。
ただただ寄付していただくわけにはいかないので、寄席の中に、また外に提灯を吊るしその提灯に寄付をした人の名前を書いて、寄席がある限り吊るす。

次なるデザインがだいたい決まると、協会員と寄付集めに奔走した。
寄付集めの落語会も開いた。

協会内には建設に反対のものもいたし、 協力的でない落語家もいたが、今はそんなことは考えることもない。
紆余曲折はあったが、寄席は見事に建ったのだから。

結局集めたお金は2億4千万円。

提灯がぎっしり吊られ、名前が書かれている。
間違いなくその方々が建設者だといえる。
協会員一丸となって必死で集めて造った奇跡の寄席であることに間違いない。

正直私も驚いている。

もちろん、大阪天満宮をはじめ、商店街、地域の皆様のご協力が大であるが、ご寄付を下さったのは、四天王はじめ先輩師匠方が、戦後消えかけた上方落語の灯を必死に消さずにつないでくださったから、その想いを私たちにつないであげようと、ご厚志につながったと、思っている。

過去の積み重ね、落語ファンを作っていただいた師匠方のおかげで、結局、建ったのだと、まだまだ書き足らないことはいっぱいある。

しかし、始まりだけを記するとこんな風なことである。

上方に唯一の定席、
天満天神繁昌亭誕生

先日開場11周年を迎えた。(2017年9月15日)

出来上がってからの事も書くと、本二冊ぐらいに充分なる。
お金集めも大変だったが、そんなことも今となっては、ほとんど忘れた。

いま、幸せなのは繁昌亭を心から大事に思い、守ってくれているスタッフがいることである。
寄席には出演するものも大事だが、その舞台を陰で支える人たちがもっと大事である。

今年繁昌亭の楽屋口北側、亀の池の西奥に「髙坐招魂社」というお社が出来る。

私は今日の繁昌亭の繁栄は先輩師匠方のおかげと、皆様を合祀するお社を作りたいと思っていたからだ。

そこには亡くなった落語家、お囃子さんに、先般お亡くなりになった、商店街の元理事長、私に寄席の話を持って来て下さった「土居年樹」さんにも入っていただこうと思っている。

最後に、いつか、これまでのあゆみについても書きたいと思う。
建設に際しては、いろいろアイデアは出したが、上方落語協会所属の落語家皆さんの団結が落語の定席を造ったことに、間違いはない。

みんなの「天満天神・繁昌亭」なのだ。

六代 桂文枝

朝席

天満天神繁昌亭では午前(10時~11時30分)の時間帯は、団体貸切公演を開催することができます。

昼席

繁昌亭のメインとなる定席寄席公演。出演者は週替わりで、ベテランから若手まで、入れ替わり立ち替わり登場します。

夜席

独演会や一門会など、各落語家が主催する会を中心に、繁昌亭独自の企画性に富んだ番組もお届けします。

仕事帰りにふらっと「ひと笑い」乙夜